障がいをウリにするのは、ありか?

Kプランニング

またまた刺激的なタイトルです。先日、全国社会就労センター協議会による「工賃向上について学ぶ実践セミナー」が開催され、工賃向上検討特別委員会の委員となっていた私が「工賃向上のポイント」をテーマとした話をさせていただきました。その中で「障がいをウリにするのはありか?」という問題提起をしようとしたのですが、あまりに過激なタイトルなので、レジュメからいつのまにか削除されてしまったほどです(笑)。

しかしあらためてここで、このテーマについて考えてみたいと思います。全国の施設を取材で回っていると、とくに食品をつくっている施設の職員が「私たちは、商品の質で勝負しています。障がい者がつくっているとか、福祉施設製品であることはあえて謳わずに営業活動をしています」と自慢げに語る人にけっこう出会います。こうした考えは正しいのでしょうか? 

一般的に考えれば、もちろん正解でありましょう。福祉ということに甘えず、商品力で市場に立ち向かおうという考えは、立派だと賞賛されるのかもしれません。でも、ちょっと待っていただきたい。どうも私はこうした「正しい意見」というのがあまり好きではありません。なんか悪名高い「24時間テレビ」的な、優等生の意見っぽい雰囲気が漂っているのが気になります。事実、こういう意見を主張する人には真面目な人が多いよね。

そんな人たちに、次のような反論を試みましょう。「あなたたちの施設は、単に商品を作って売るだけのために存在しているわけではありませんよ」と。障がいのある利用者の工賃を生み出すために、一生懸命働いているのはわかります。でも、施設の運営には多額の公的資金が投入されているのも事実でしょ。その資金源となるのは、地域に住む人たちの税金ですよ。いってみれば、半公務員的な存在だ。地域住民に対して、施設の存在意義をアピールする義務が職員たちには課せられているはずです。

「障がい者がつくっていることは語りたくない」という考えは、その義務を怠っていることにはなりませんか? 本当にそういう立派な信念を貫きたいのだとしたら、株式会社のスタイルで運営すればいい。障がいのある人たちを多数雇用しながらも、あえて会社形態で稼働している製造工場だって全国にはありますよ。福祉事業という名目の上に公的資金や多額の助成金を受けながら、福祉のことは語らないというのは任務の放棄でしかありません。

そもそも論として、なぜ福祉施設だと語りたくないのでしょうか。私には、彼らのその考え方そのものが理解できないのです。確かに以前は、口で絵筆をくわえることによってアート作品を描く重度障がい者を前面に出した絵画展が開催されたり、手足を切断した障がい者を祭りの出店で見世物にするような時代がありました。「障がいをウリにする」という私の主張が危険ワードだと認識されるのは、こうした風潮の延長線だと捉えられるからでしょう。

でも時代はもう明らかに変わったのです。「障がい者がつくったクッキーだから、ヨダレでも入っているんじゃないか?」みたいな偏見は、今や時代錯誤のものとなっているはずです。それにもかかわらず、福祉を語らずに商品だけで売りたいと主張する人たちがいる。もしかしたら彼らこそ、いまだに昔ながらの偏見を持ち続けている張本人なのかもしれません。

最後にもう一度書かせていただきます。「障がいをウリにするのはありか?」──こんな問いに対して「アリです」と、全国の福祉関係者にはぜひ堂々と答えていただきたい。自分たちの信念に確信がもてるなら、「ウリ」という言葉が「訴え」であることに気がつくはずです。そんな人たちが増えていけば、地域社会の福祉への理解は格段に上がっていくことでしょう。